現在、亀岡市文化資料館では、「亀岡の名宝」と題して特別展が開催され、その中で金剛寺の応挙作品が制作された当時の本堂をVR(バーチャル リアルティー)で再現する試みがされています。
そこで問題となるのが、応挙が描いた当時「波涛図」(30襖及び1間の壁紙)のうち②部分の4面がどの位置にあったのか?
A案、これは従来からの定説で、様々な書籍、図録等でこの様に配置されていたと紹介されています。
そしてB案、これは私が20年程前から主張し、一部書籍にもこのように掲載されています。
それぞれの案の根拠と内容を、まとめると次のようになります。
A案は、明治34年7月8日、社寺の全国調査で岡倉天心と共に当寺を訪れた六角紫水の日記。
これを見ると、詳細に正しく描かれている様に見えるが、実際には間違いもある。
寺の山号は、本当は福寿山だが愛宕山と誤記、またフリーハンドで描かれた本堂の玄関は実際とは違っている。
さらに岡倉天心の日記を見ると、「金剛寺を訪れた時、既に襖壁紙から外されていた」との記載が有り、二人は実際に絵がはまった状態で見ていない可能性もある。
最大の疑問は、この配置であれば本尊が安置された仏間内部の8襖には何も描かれていなかった事。
仏間以外の全ての部屋の壁や襖、全体で56面という膨大な作品を描きながら、なぜ仏間には何も描かなかったのか。
六角の日記には、その理由や流失等の記載は無く、この事に全く触れていないのは非常に疑問である。
ちなみに、これをB案にすると正面の4枚の襖(表裏8面)は不要になり、且つ白紙状態の襖が全く無くなる。
これが私がB案を主張する第1の理由。
さらに、波涛図(30襖及び1間の壁紙)の丈は全て約180cmであるが、旧本堂解体(平成9年)以前の写真をみると、問題となる4枚の襖のある床と虹梁(こうりょう)の間隔は約210cm。
虹梁に襖がはまる溝は無く敷居もない、つまり襖がはまる状態にはなっていないという事。
そこで先日、地元の大工さんに旧本堂の写真を見せて意見を伺いました。
「当初の鴨居を外し高い虹梁に取り換え、敷居を外して板間にした可能性は排除できない。
棟を支える両側の大黒柱に鴨居を取り外した痕跡があるかどうかではっきりするが、現物がないので断定は出来ない」との事。
岡倉天心や六角紫水が訪れた頃(明治30年代)に本堂が改修された様だが、具体的改修の内容は分からないし、A案B案どちらが正しいかも釈然としない。
しかし、明確にならない事で「波涛図」の見方にバリエーションが生まれ、ロマンが広がる。
私は、応挙が本当に描きたかった、また見て欲しかった「波涛図」は、次のような要素を持つものだと思っています。
① どこまでも綿々と続く広大な大海原の波を、どんなサイズで、どんな目線で、どう描くのか?
② 本堂という限られた空間を、どの様に使えば最大限の効果が出せるのか?
③ これまで誰も描いたことも見たことがない綿々と続く大きな波涛、その迫力のある空間をどうしたら作り出せるのか?
そこで私は、これまでの定説の配置だけではなく、襖を移動させることでバリエーションのある絵が見られるよう応挙は計算し、チャレンジしたのではないか。
応挙の意図を推し量る一つの手がかりは、落款の位置と内容。
金剛寺の3作品には、落款、落印は合計5ケ所に入っている。
1番丁寧なのは、上間山水図の「天明戊申暮夏写平安源應擧」。これは、最も大切な部屋、上間の絵の視点となる茶店部分に。
次に丁寧なのは、下間群仙図「天明戊申晩夏写應擧」。これは、下間の群仙図の最終で、本堂全体の最終位置となる鉄拐の図に。
他は、波涛図の3ケ所。
①の部屋、北面4枚目鶴の横に「應擧」
③の部屋、北面中央の壁紙に「應擧」
④の部屋、北面4枚目に「戊申晩夏写應擧」
「波涛図」は、3部屋に渡るので、それぞれに落款を入れたとも考えられるが、私は④の部屋の落款が、「波涛図」全体の終わりを示すために「應擧」だけでなくわざわざ丁寧に入れたのではないか?
また、鶴や陸地が描かれた部分と綿々と続く波だけの大空間は、同一では無いのではないか?
こうした事を考慮して、破線の襖8枚を実際に鴨居や敷居の有った実線の位置に入れ替えると、全てが満足できる状態になる。
これこそが、応挙以前にも以後にも誰も描けなかった波涛、応挙が本当に描きたかった広大な大海原。
こうした迫力、奥行きのある「波涛図」は、現在の金剛寺本堂や広いスペースを持った博物館等で展示が可能だが、金剛寺から東京国立博物館に移されて100年以上、一度もこのように展示された事はないと思います。
是非ともこうした配置の展覧会を開催して、応挙の真骨頂にふれてみたいものです。
皆さんは、このミステリーをどの様に考えられますか。
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