私は、金剛寺の膨大な障壁画が本来どの位置にあり、どの様に繋がり、どう観るのかについてはこれまで余り研究されてこなかったと思っている。
何故なら、明治34年7月8日に全国宝物調査で岡倉天心や六角紫水が金剛寺を訪れた時には、既に襖や壁から剥がされ、巻かれた状態で見つかったことが日記などから窺われる。
つまり、それ以前はともかく、本来の配置で障壁画を見た者や図面等がないため、応挙がどの部屋(空間)にどの様な意図をもって描いたかが分からないから、今だに謎の部分があるのである。
その典型が、今回の応挙展で複製だが横一列に展示した波涛図12襖。
これは、夏目漱石の小説に登場したり、京博での「没後200年記念展」でも展示された代表的な部分だが、実際の本堂に全体を戻した場合は有り得ない配置となってしまう。
この12襖の配置は、4種のバリエーションがあり、約20年前の大きな展覧会の図録解説や別の最近の図録でも「寺伝では…」と云う表現で、私の説が紹介されている。
応挙も住し、描いた本堂で作品に接すると、「群仙の空間もそんなに単純ではないぞ!」という声が聞こえてくる。
そこで、今一度疑問点をまとめ、原点に返って表題に向き合いたい。
位置と番号は、顕彰会が今年1月に作成したパンフレットに基づき考えてみる。
https://www.kongouji.net/wp-content/uploads/2023/12/b6805f40f6fd70c6d9a7d68cf34748e6.pdf
群仙図は、№1~12までだが、最近の応挙展では№1~3は展示せず、№4~12をこのとおりの順番で展示している。
一見連続している様で違和感はないが、以前から次の3つの疑問が有った。
① パンフの並びとは異なるが、実際は№12(老子)から始まり№1~3(床の間)、№4(鉄拐)、№5(ガマ仙人)までが続く上面と、障子4枚の右面を挟んで№6~9の下面とは連続性や共通性が有るのか?
② 応挙が当作品の2年前に描いた和歌山無量寺の「波上群仙図」は、全員が波や空中にいるが、金剛寺で空中にいるのは№6(霊少女)だけなのか?
③ №4(鉄拐)と№5(ガマ仙人)の足と地面の関係には違和感がある?
一方、明確なのは、№4、5は「ガマ鉄拐」と呼ばれるセット物で、№6~9は襖4枚の続き物。
20年以上前、これらを現本堂の同じ位置に実際に配置してみたことがある。
仙人達の目線が基本的に№11(白紙)を向いているのは、その裏側の仏間に本尊釈迦牟尼仏が安置されていて、仙人達と本尊が向き合い見つめ合う関係を明確にするためにワザと№11を白紙にしていることに気づいた。
さらに、地面に高低差(傾斜)をつけることで、見る人の目を№11(白紙)の方向に誘導していることも分かった。
これらを勘案し、№4(鉄拐)と№5(ガマ仙人)は空中に浮いているのではないかと考えてみた。
すると、鉄拐の足と下方の岩はほぼ同じ位置にあるので空中に浮いている様に見える。
同様にガマ仙人は、座しているが地面が描かれていないので、空中に浮いている様に見える。
ガマから落款までにうすく描かれた地面からは、ガマのいる地と鉄拐の下の岩との違いをあえて区別しようとする応挙の几帳面な性格が読み取れる。
以上から、空中に浮いているのは霊少女、鉄拐、ガマ仙人の3人で、上面の最終№5と下面の最初№6は、続いているのではなく、同じ傾斜の斜面を相対させた位置関係にあり、リアルな三次元空間を生み出しているとの結論に達した。
一方、他と関連性を全く持たないのが№10(黄初平)。これは40年前の牧童時代を描いているため時差を考慮しているとも考えられるが、推測の域を出ない。
また、山水図との整合性から考えると、なぜ№11(白紙)に落款を入れなかったのかなど、ミステリーな部分は残ってしまうが…
いずれにしても、この部屋には通常右面の障子を開けて入るが、初めて訪れた人は、狭い六畳の部屋に仙人13人、羊2匹、牛、ガマがいてさぞかしびっくりした事だろう。
そして、あえて言うならその部屋に入る手前で座した時、両側、正面に三次元空間が広がる手法は、山水図、波涛図とも共通し、本尊釈迦牟尼仏からの視点の共通性と合わせ、三作品には本堂全体を考慮した一貫性を持たせていることも併せて理解しておく必要が有ると考える。
さて、皆さんは、この新説をどの様に考えられますか?
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