〇作家水上勉と譲山和尚

( 平成17年1月1日発行天龍寺派「教学時報」第47号 )

去る平成 16 年 9 月 8 日死去された直木賞作家水上勉氏は、大正 8 年に福井県の貧しい田舎村に生まれ、食扶持減らしのために等持院住職二階堂竺源老子のもとに預けられました。8歳で得度したものの、出奔を繰り返し 17 歳で還俗、 30 種以上の職を転々とした後、「雁の寺」「飢餓海峡」などを次々と発表して作家としての地位を確立していったのです。

金剛寺第 13 世譲山和尚(大正 10 年生)も同じ福井県の生まれで、水上氏と同様の境遇であったことから、譲山和尚は二階堂老子の兄弟弟子である中道黙翁師に預けられ、小僧時代から交流が有ったようです。

こうした関係で、昭和 60 年頃亀岡市仏教会が講演会を開いた時、水上氏が東京から手弁当で駆け付けて来られました。その夜は、金剛寺で宿泊され、酒を酌み交わしながら昔話に花が咲いたようですが、その時に何枚かの色紙を書かれました。「学は貧中に有るか、亀岡金剛寺に霊昭女の絵を見る」「ふきのとう」「春夏秋燈 金剛寺の和尚がこう書けというた 冬はいやか」「いろいろ咲いて根に帰る」等々。

「ふきのとう」は、酒の当てとして出したふきのとうの佃煮が大層気に入り、「どうしても気持ちを書留めたい」と、少し酔った後で墨を擦りなおして書かれました。どれも、その時の思いや人生観を素直に表現されていると思います。

水上氏の作品は、「人間の宿命と哀しみの扱い方があまりにも暗く、暴露的である」との批判があります。しかし、「仏教的な優しさがあり、近寄りがたい宗教ではなく、彼なりのアレンジによって、ごく庶民的で近づきやすいものにされている」という評価もあります。

いずれにしても、逆境と病気を乗り越え、自らに正直に生き抜いた偉大な作家であったことに間違いはありません。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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