金剛寺では、毎年6月2日に戦友会の慰霊祭を厳修しますが、特別な一日となっています。その理由とは!
当寺の先代住職の承謙和尚も会員であった六一戦友会の慰霊祭を、40年ほど前から行っています。
当初40人程が参加されていましたが、高齢化にともない徐々に参加者は減少、ついに昨年は参加者は無く、今年も私が一人で慰霊碑などで読経しました。
慰霊碑は、「戦没戦友慰霊之碑」と「鳴呼殉国愛馬之碑」の2つで、戦友と愛馬の碑が全く同じ形状で並んで建っています。そこには、元々フィリピン・ルソン島の「比島寺」に戦友会が建てたものを1996年に金剛寺に移築した、と書かれています。また輜重(しちょう)第16連隊 通称垣六五六一部隊と書かれ、六一戦友会の命名はここからだと分かります。
先住である父は、戦争についてあまり語らなかったので、当時の事が良くわからないことから、残された資料を基に調べてみました。
連隊は、京都を中心に編成された第16師団(当初約25,000人)に所属し、京都、滋賀、奈良、三重などの出身者で構成され、フィリピンのルソン島に駐屯後、戦況の悪化に伴い大激戦地の一つレイテ島に移動したことが分かりました。
その中の輜重第16連隊(約2000人)は、前線に弾薬や食料を輸送するのが任務で、ジャングルでは馬が頼りでしたが、戦況の悪化に伴い部隊の大半はレイテ島に移動、当初450頭のうち残った約200頭を死守するため、百数十名がルソン島に残ることになった様です。
しかし、レイテ島に移動した師団や部隊はほぼ全滅。ルソン島にも終戦の約2ケ月前(1945年6月)に連合国軍が上陸、残った人たちは馬と共に険しいジャングルを敗走するのですが、行先を失った全馬が断崖絶壁から滑落してしまいます。こうして終戦を迎え、生きて帰還した人たちで結成されたのが、六一戦友会でした。
私は、20年数年前に慰霊祭に立ち会った時、愛馬の碑の前で「私たちは、貴方たち(愛馬)が居てくれたお陰で生きて祖国に帰ることが出来ました。しかし、貴方たちを一頭も連れて帰ることが出来ず誠に申し訳ない ……」と涙ながらに祭文を読み上げられた光景を忘れることが出来ません。
その後、1999年に平和観音が建立され、2003年には「戦争は無謀をもって始まり 後悔をもって終わる」の戦友会の冊子が発行されました。
そして今から6、7年前の慰霊祭の時、「我々も高齢で何時まで慰霊祭が続けられるか…」との話題に、「誰も参加されなくなっても慰霊祭は毎年寺で続けますよ。やるのは、何日が良いですか」と尋ねると、即座に「6月2日」と回答されました。この日に何が起こったのかは、語られませんでしたが、多くの「愛馬」が断崖絶壁から転落して亡くなった日だったと思われます。
金剛寺にとって6月2日は、戦争を風化させず平和を考えるための大切な日となった訳です。
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