去る1月31日、「かめおかの至宝を体感する」と題したイベントが「地域資源を掘り起こす会」の主催でガレリアかめおかで行われました。



私もコメンテーターを依頼をされ、金剛寺の円山応挙筆「波涛図」と如意寺の土岐済美筆「波涛図」を比較する内容があったため、如意寺の松岡住職を訪問しました。
如意寺と金剛寺は同じ臨済宗天龍寺派に属し何回も訪問していますが、今回ゆっくりと拝見して非常に興味深いことに気づいたのでここで紹介したいと思います。
① 応挙が金剛寺で「波涛図」を描いたのは1788年。これを基に応挙の弟子の済美が模写したのは約40年後の1829年、如意寺の本堂が建立された翌年にあたります。
32面という膨大な襖の模写には相当な期間が必要だったはずですが、これは当時の両住職がかなり親しかったから可能だったのでしょう。
② 如意寺の「波涛図」3室は、金剛寺のものを1室(12襖)はそのまま模写、1室(12襖)は反転、1室(8襖)は90度ずらして描いている。この様にしたのは、上間(庫裏から遠い部屋)が真逆となっているからですが、金剛寺の様に波は連続しません。
「波涛図」はあくまでも模写ですが、他の部屋には全く筆致の違う済美オリジナルの素晴らしい作品が残されていました。
③ 最も興味深かったのは、仏間正面の虹梁(こうりょう)と敷居に溝が有るのに襖が無いので松岡住職に尋ねたところ、「前住職の時代から襖をはめた事が無いと聞いています。」との事、別場所に保管してあるのを見せてもらいました。
感 想
・虹梁は鴨居より約30㎝高いため、4枚の襖の丈は約200㎝だった。
(しかし、平成8年発刊の「新修亀岡市史」も令和4年発行「亀岡の名宝」にも如意寺の「波涛図」のサイズは32面全てが170㎝×92.2㎝となっていて、明らかに誤っている)
・襖の表は一部分補修されているものの傷みは少なく、裏は無地だった。
・この襖4枚は、重なり部分の日焼け跡が無い事、前住職の証言、亀岡市資料の誤りなどから推測すると、当初から殆ど仏間正面にははめられたことが無いと思われた。
この位置の襖4枚については、金剛寺においても同様に以前からの大きな関心事であったことから、4年前にも『「波涛図」のミステリーに迫る!』と題して考察しています。
そこで、これらのミステリーを解決するために私の仮説を紹介したいと思います。
仮 説
(1) 私の知る限り本堂の仏間は、壁や襖により個室になることが過去の原則だったと思われるが、小さな寺院では仏間を締切ると日常の法務に支障があることから、現在は殆どの寺院の仏間前面の襖は入れず、個室となる構造とはなっていない。
(2) 金剛寺前本堂が建立された時、仏間正面に元々襖が無かったか、又は有ったとしても如意寺と同様に取り外されていたかは不明だが、約50年後、応挙が描こうとしたときに正面の襖4枚は無かったことから、仏間の両側面に問題の部分を描いたのではないか。
(3) 約40年後、如意寺の本堂が建立された時、仏間正面には襖が入れられていた。済美はここに問題の部分を描くが裏面は無地のままにして、仏間両側面にオリジナルの「羅漢図」を描いた。
(4) 結果的に、如意寺のこの仏間正面の襖は常に取り外されてしまった。
(5)金剛寺の仏間両側面の襖は、本堂裏の板壁や床下の防水処理等が不十分だったことから湿気が回り、波涛図32面の中でも損傷が特に酷い2面となってしまった。
*写真の中央2枚

以上ですが、如意寺については推測の域を出ませんが、金剛寺については今回の修復で当該の襖、特に奥側2面の下部の損傷が激しいのはこうした原因だろうと考えています。



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