応挙と金剛寺の概要
1733年(享保18年) 応挙誕生
5月1日、地元穴太の農業を営む父丸山藤左衛門と母の次男として生まれる。幼名岩次郎。この頃は、飢饉が続く貧しい時代。
1740年(元文5年)~ 金剛寺で小僧生活
食扶持減らしのため金剛寺で小僧生活を送ったと考えられ、当寺の住職玉堂和尚より禅の基本(既成概念にとらわれず何事も自然体で全てを受け入れること)を教えられたことが大成する上で重要な出来事だったと考えられる。
1747年(延享4年)~ 京都に出て絵師として大成
京都に出て、玩具商中島勘兵衛に奉公、眼鏡絵などから遠近法を学ぶ。次に、円満院祐常門主の求めに応じ写生を極める。その後、模写ではないリアルな中国画を次々と発表、一躍有名になる。
1788年(天明8年) 金剛寺本堂に障壁画を描く
天明の大火で故郷に疎開。両親の追善供養と小僧時代の感謝を込め、本堂の全ての襖等に作品を寄進。「波濤図」は圧倒的空間、静寂と躍動。「群仙図」は様々な顔立ちと姿勢。「山水図」は360度の遠近法。
それぞれが新しいチャレンジであり、生涯の集大成である。