玉堂和尚肖像画

少年期の応挙と金剛寺との具体的関係を裏付ける資料が2005年秋に発見されました。それは、応挙が少年期に小僧として預けられた当時の住職玉堂和尚(第4世)を描いた肖像画です。応挙は、8歳頃から金剛寺で小僧生活を送り、玉堂和尚から禅の手ほどきを受けると共に画家への道も勧められましたが、15歳の時和尚が遷化(死去)したのを期に京都に出たようです。

それから約20年後、34歳で「応挙」の号を使い始めるのですが、この頃師匠である玉堂和尚の想い出を肖像画として描いたのがこの作品です。この作品は、応挙が37歳・1770 (明和7) 年に描いた「人物正写惣本」(天理大学付属天理図書館蔵)の老人と酷似していることから、双方の関連は非常に強いと云えるでしょう。

この肖像画の裏面には、「金剛玉堂連和尚真像 曽祖父応挙真筆也 圓山主水応立鍳識 印」と、ひ孫・応立の裏書が有りますが、これは応立が明治初期頃、応挙が残した様々な下書きや未表装の作品の中から発見し、表装、裏書して金剛寺に寄贈したのではないかと推測出来ます。


以下、京都新聞より引用。

「応挙作か 肖像画発見 思い入れ深く 少年期の思い出描く?画才見出した4代目住職 ゆかりの亀岡・金剛寺」

江戸時代中期に京都画壇で活躍した円山応挙(1733-95)が少年期を過ごしたとされる亀岡市曽我部町の金剛寺で、応挙か、応挙の作品を基に弟子が描いたとみられる同寺の4代目住職の肖像画が見つかった。4代目住職は応挙が10代前半で亡くなっており、調査した京都国立博物館は「若き応挙の行跡がうかがえる貴重な資料」と注目している。

水墨画(幅53cm、縦109cm)で、裏に「応挙が(4代目住職)玉堂和尚を描いた」と応挙のひ孫・応立の名で記され応立の刻印もある。同寺の蔵で見つかり、昨年12月から同博物館の佐々木丞平館長(日本近世絵画吏)が調査した。

その結果、佐々木館長は「裏書きは筆跡などから応立のもので間違いない。絵は年配の住職の表情を正確に描く精度の高い筆の運びで、応挙の写生の特徴が非常によく表れている。応挙の作品の可能性が相当高く、そうでなくても応挙が描いたのを基に弟子が複写したものだろう」とみる。

同寺の伝承では、6代目住職・磐山が10歳余りの応挙の絵の才能を見い出し京都行きを勧めたとされる。しかし、応挙が14歳の時に亡くなったのは4代目・玉堂で、年代から、かかわりが深いのは玉堂ではないかとの疑問も出ていた。佐々木館長は「(複写の基になったものでも)応挙が30代に描いた作品だろう。その20年ほど前に亡くなった玉堂を描いたのは、よほど思い入れがあったためで、京都行きを勧め画家への道を開いたのは玉堂だと推測できる」と話す。金剛寺の中道承碩住職(54)は「4代目なら、年代のつじつまもあう。当寺と、少年期の応挙との深いつながりを示す具体的な証となる」と話し、年に1回は公開していきたいとしている。