山門額と朝鮮通信使

日韓共同開催となったサッカーワールドカップは、盛会のうちに無事終了した。その間、両開催国が予想以上に活躍し、お互いがお互いの国を必死に応援する若者の姿が特に印象的であった。両国の距離が一気に縮まり、友好関係の進展に大きな成果があったことを素直に喜びたい。

ところで、江戸時代に鎖国政策をとりながらも徳川将軍が他の国王と国書を交換し、対等の友好国として交流していたのが朝鮮国である。いわば我が国にとって唯一の、正式な外交国だったわけで、朝鮮国王より将軍に対し「信を通じる・友好の証し」として遣わされたのが朝鮮通信使であった。慶長 12 ( 1607 )年以来、文化 8 ( 1811 )年まで 12 回にわたり来日するが、一行の人数は、毎回 300 から 500 人という大使節団で、李朝朝鮮政府が選び抜いた優秀な官僚たちと、随行員には美しく着飾った小童・楽隊・武官・医師・通訳などが加わっていた。一行の宿所には京都では大寺院があてられ、漢字・漢文を心得た禅僧が多数動員され接待と事務処理に当ったようだ。

京都大学名誉教授の上田正昭先生は、『京都と朝鮮通信使の歴史をかえりみる時、忘れることのできないのは、京都五山とりわけ天龍寺・東福寺・相国寺とのつながりである。(中略)対馬の厳原(いずはら)にあった朝鮮との外交事務を管掌する以酊庵(いていあん)には、寛永年度から京都の碩学の僧が輪番僧として派遣されていたが、慶応 2 ( 1866 )年の廃止まで、天龍寺から 37 人、東福寺から 33 人、建仁寺から 32 人、相国寺から 24 人(いずれも延べ人数)が赴任している。

亀岡市曽我部町穴太の金剛寺の楼門に「金剛窟 朝鮮朴徳源(パクトクウォン)」の扁額が掲げられているのも、第 11 回(宝暦 14 年)通信使のメンバーであった朴徳源の書で、「朝鮮国梅軒」の扁額のある峰山町・全性寺とともに天龍寺派に属することが注目される』(平成 12 年 9 月 24 日付け京都新聞「朝鮮通信使の時代 38 」)と記しておられる。

朴徳源は、朝鮮の書家一覧に名を列す大家で、如何なる理由で金剛寺に扁額が有るのかは想像の域を出ないが、「為日本国僊叟禅師」と刻まれていることから、金剛寺第 7 世の僊叟和尚が通信使の接待役に召集された時、通訳として随行していた朴徳源と親しくなり、直接一筆を要請したことが考えられる。

いずれにしても、今から約 240 年前に朝鮮の書家と日本の禅僧が交流を持ったのである。今も金剛寺の山門額には、日朝友好の歴史が鮮やかに刻み込まれている。